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あだち充『タッチ』を精読する。浅倉南はほんとうは何を考えていたのか。

 浅倉南の話をしたい。

 もちろん、あだち充の傑作漫画『タッチ』のヒロインである「南ちゃん」のことである。

 彼女が少年漫画史上に残る重要なキャラクターであることはあきらかだが、それにしてはその評価は個人個人で分かれる。

 もちろん、だれからも愛される万人向けのヒロインなど存在しようもないわけだが、浅倉南の人気とうらはらの悪評は強く印象に残る。

 なぜ、南はこれほどまでに嫌われるのか。ぼくにはそれはそもそも彼女が何を考え、何を思い行動していたか広く理解されていないからだと思えてならない。

 当然、作中にはっきりと南の心理が書かれていない以上、すべては解釈の問題でしかなく、自分の考え方が「正しい」などと主張することはできない。

 しかし、いままで浅倉南について、さらには『タッチ』という作品について伝統的になされてきた「読み」を検証しながら、もう少し違う読解を提案していくことは可能だろう。

 だから、浅倉南の話をしたい。じっさいのところ、浅倉南が何をどう考えて行動していたのか、そのほんとうのところを明らかにしたいのだ。

 まず、本題に入る前に話をくりかえしておくと、ここでいう『タッチ』とはあくまであだち充によるマンガ版のことだということである。

 自明のことに思われるだろうか。しかし、『タッチ』や浅倉南の評価について検索し、なぜこうも南への評価は混乱するのかと考えていて、ひとつ気づき、また推測できたことがある。

 それは世紀の名作であることがあきらかな『タッチ』という作品について語るとき、多くの人が厳密にテキストを参照するというよりは自分のあいまいな「印象」で話してしまっているということである。

 さらには、その「印象」は純粋に原作マンガのテキストに従ってものではなく、多くの場合、アニメーション版の要素が混ざってしまっていると思しい。

 最近のアニメはかなりのところ原作のストーリーに忠実に作られるようになっているが、かつてはアニメ化といえばいくらかオリジナルエピソードを足すことがふつうだった。

 『タッチ』の場合も、どうやら重大な個所でマンガとアニメの描写が異なっている場面が多数あるらしい。

 そして、多くの人がアニメと原作が混じった何となくの「記憶」や「印象」で南を語ってしまっているようなのだ。

 これはよくあることかもしれないが、ある作品について厳密に分析しようとするとき、致命的なことである。

 よって、ここではアニメの内容は無視し、あくまで原作の内容に従って記述する。

 マンガを語るとき、重要なのはあくまでマンガのテキストだ。べつだん、バルトやら何やらをひきあいに出すまでもなく、あたりまえのことだろう。そのあたりまえを忠実に実践していくことにしたい。

 さて、浅倉南という興味深いキャラクターを語るまえに、まずは先行する批評を紹介したい。たとえば、CDB氏の「『タッチ』の南ちゃんは本当は何者だったのか」という記事である。

 そこでは南のイメージが「人によってバラバラ」であることを踏まえた上で、このように書かれている。

早い話が、浅倉南という子はそれまでの少年漫画に出て来た応援ヒロイン、主人公を応援したり、勝負に勝った方の彼女になったりというそういうステレオタイプを逆手に取った新しい天才ヒロイン像だったわけである。「いわゆるああいうタイプのキャラだと見せて実はちがうんだよ~ん」というキャラだったはずの南ちゃんなのだが、『タッチ』1億部という異常なヒットの結果(あだち充全作品ではなく『タッチ』だけで売り上げ1億部なのだそうだ)『タッチ』以前の古いスポ根漫画が時の流れで忘れ去られ、「女子マネージャーといえば南ちゃん、いわゆるああいう南みたいな女」という誤解が生まれてしまったのは皮肉である。

 

もうひとつ南のイメージが混乱するのは、『タッチ』という作品が和也の死の前と後でまったく変わって行く、というかあだち充という作家が和也の死を描いたことで完全にひとつ上の次元の作家に化けていく作品なので、南ちゃん像というのが1巻と最終巻でかなり変化しているのである。最初の方の南ちゃんがわりと普通の女の子であるのに比べ、後半の浅倉南はほとんど涙を流さないハードボイルドな、そして天才性を強めたヒロイン像になっていく。これは南というキャラだけではなく、あだち充という漫画家が和也の死とそれ以降を描くことによって、「ラブコメハードボイルド」とでもいうべき、それ以降のあだち充作品に共通するあのクールでポップな文体を獲得していく。」

 そう、浅倉南というキャラクターは物語を通して変化し、成長している。初期ではきわめて優秀ではあるものの、それでも「普通の女の子」の範疇に入っていたキャラクターが、後半に行くに従って傑出した天才の素顔をあらわにし始めるのである。

 そこら辺のことを上記記事ではこのように綴っている。

自分で書いておいてなんだがこれもちょっと語弊があって、浅倉南という人は天才なのだが、前のめりにバリバリのキャリア志向なのかというとちょっと違うと思う(僕が書いたのだが)。かといって家庭志向なのでもない。なんというか南という人を勉強にたとえると、苦もなく東大には入れるのだがそんなことには興味がなく、世界の誰にも解けない数学の命題のことをぼんやりと考え続けているような、そういうタイプの天才なのだと思う。この「解けない命題」とは言うまでもなく、和也の死のことである。

 そうなのだ。浅倉南を理解し、ひいては『タッチ』を読解するためにまずはこの補助線を理解してほしい。

①浅倉南は天才である。

 いかにも「和也や達也の夢に寄生している」ようなイメージがつきまとう南だが、その実、彼女自身がすさまじいまでの才能を備えていることは明記しておく必要がある(じっさいに作中には達也が南のことを和也と比べて「おまえ以上の天才かもしれないぞ」と語るシーンがある)。

 もちろん、これは原作を熟読した人間にとってはあたりまえの事実に過ぎないが、氾濫する「何となくのあいまいなイメージ」や「聞きかじりの情報」を執念深く修正していくためにはこういった事実の確認から入る必要がある、と考える。

 さて、それではその天才の南がなぜ和也に対して「南を甲子園につれてって」などといい出すのだろうか。

 この、いかにも他人に努力を強いて何もしないかのようにも感じられるセリフは、南に関する誤解を深めている。

 そこには具体的にどのような意味があったのか。ここでちょっとした衝撃の事実をひとつ。じつは「南を甲子園につれてって」というセリフは、少なくとも原作のなかには登場しない。

 たったいま全巻を読み返して確認したばかりだ。ただ、「南を」を省いた「甲子園つれてって」があるだけである。

 そしてこのセリフは、達也のモチベーションを高めるために口にされる。

 単行本だと第13巻から第14巻にかけてのあたりだ。どこまでもやさしく、お人好しで他人のことを気にしてばかりであった和也がなぜピッチャーとしてあれほどの力を発揮できたのか、と考える達也は、南の言葉があったからだと気づくのである。

 そして達也はその「甲子園つれてって」という言葉を自分にもいってくれるよう求め、南はそれに応える。

 つまり、この言葉は南自身の願望「ではなく」、むしろ達也を強く動機づけるために発せられているのだ。

 そしてそれは和也に対しても同じことだっただろう。おそらく、ほんとうに幼い頃はただ何げなく「甲子園に行きたいなあ、連れてってね、カッちゃん」くらいの気持ちでいっていたのかもしれない。

 だが、それはしだいに抜き差しならない真剣な感情へ変わっていった。そのプロセスにおいて、この言葉は「和也を支えるための言葉」へ変化していったのだと思われる。

 つまり、一貫して南は自分が甲子園に行きたいというよりは、和也や達也を励ますためにこう語っているのだと考えるほうが自然だ。

 もっとも、原作3巻には「そりゃ南の夢だから、なんとかかなえてあげたいけどサ。」と語る和也に対し、南がそのことを肯定する場面がある。

「そ、夢なの。小さいときからの―― 初めてTVでみた甲子園―― そして背番号1! カッコよかったなァ… それがサ、もし自分の高校で……… そしてその背番号1が南のーー」
「南の?」
「幼なじみだったら最高じゃない それをTVじゃなくて、甲子園のスタンドでみるの…… それが南の夢。」

 しかし、この場面はよく読むと意味深なのだ。

 「それが南の夢。」と語っているコマでは、南の顔は後ろ向きになっていて表情が見えなくなっている。このことを口にしたとき、彼女が考えていたのかはよくわからない。

 また、あだち充の表情の描写はじつに絶妙で、物語は何ともミステリアスな印象になっている。

 とはいえ、おそらく、南は自分の言葉が和也を支えていることを知っていた。初めはほんとうに甲子園へつれてってほしかったのかもしれないが、それはいつのまにか和也のモチベーションを高め、かれに実力を発揮させるための魔法の呪文へと変わっていたのだろう。

 つまり、二本目の補助線はこういうことである。

②浅倉南が「甲子園つれてって」と言うのは自分の夢のため「ではなく」和也と達也の動機づけのためである。

 さらに、ここで良く理解しておいてもらいたいことは、南は一貫して和也に対しものすごく気を遣っているということである。

 彼女の恋愛対象は最初から一貫して和也ではなく達也だ。これは本編にはっきりと記載されている。第21巻において「南はタッちゃんが好きなのか?」「ずっとまえから?」と聞かれた彼女ははっきり「うん」と答えている。

 南は双子のあいだを揺れ動いたりしていない。初めからずっと一貫して恋愛的な意味では達也のことを好きだったはずだ。

 しかし、こう考えるとひとつの当然の疑問に突き当たるだろう。それなら、なぜ和也にいい寄られたとき、はっきり拒絶しなかったのかということだ。

 この点こそが「浅倉南は二股をかける悪女」といった、ぼくから見るとあきらかに不当な評価につながっているポイントであろうと考える。

 じつは作中でもそのような評価が存在することを示唆する場面も存在する。第20巻で噂好きらしい女子生徒が「ピーチクパーチク」と語る場面だ。

「なにいってんのよ! 浅倉さんは和也くんの恋人だったのよォ。中学のときから有名だったんだから、あの二人は! それが和也くんが亡くなったとたん、達也くんに乗りかえちゃってサ。かわいい顔してけっこう調子いいわよねェ。ま、なんたって双子だもの。うってつけのスペアだわさ。」

 卑しい受け取りかたとしかいいようがないが、少なくとも原作ではこのような受け取られ方も意識されていることがわかる。

 それなのに、あだち充はなぜ「一見すると三角関係に見える」描写を選択したのか? そして、なぜ南は和也に対してもっとはっきり「達也が好きだ」といわなかったのか?

 これは、和也の内面を想像してみないと理解できない。というか、和也の複雑コンプレックスを理解しないと、『タッチ』という物語はそもそもまったく理解できなくなるのである。

 この点について、成田美名子の名作少女マンガ『CIPHER』と比較しながら分析しているのが以下の記事だ。

 これはきわめて秀逸な内容だと思う。そこではこう書かれている。

まず、上杉家の話から。

出来のいい弟としょっちゅう比べられて「出がらし」よばわりされていた達也ですが、より強烈なコンプレックスを抱いていたのって、実は和也のほうだと思うんです。

「一番は達也」「愛されるのは達也」「自分は努力しているし認められているけど、達也が本気を出したら決してかなわない」というふうに彼は思ってしまっているし、おまけにそれはかなり正しい(そこが辛い)。

あだち充作品の主人公って大体そうなんですけど、達也って飄々としてほんとうにかっこいいです。和也の抱える苦しみってのはひりついてて、読んでる側まで息苦しくなっちゃうようなところがあるんですが、達也は逆。さらっとして、きもちのいい男です。さすが主人公。そりゃ南もたっちゃんが好きだよ、と思います。和也は優等生でモテモテだけど、モテることと愛されることは違っていて、やっぱり「愛される」のは達也なんですよね。」

 そう、どんなに和也が人気があってまわりからリスペクトされていても、「一番は達也」であり、「愛されるのは達也」なのだ。

 これが『タッチ』を読むとき、最低限押さえておかなければならない第三の補助線である。

③和也は達也に対し複雑に折れ曲がったコンプレックスを抱いている。

 なぜ、そのようなことがありえるのか? あきらかに優れているのは和也のほうであり、達也は劣った能力しか持っていない「出がらし」でしかないはずではないか。

 だが、ここが『タッチ』という作品のおそろしい、ほんとうにおそろしいところなのだ。

 最近、仲間内で話題になっている面白いマンガに『ダイヤモンドの功罪』という作品がある。ここでは、主人公の天才投手があまりにもかけ離れた実力によってまわりの少年たちを追い詰め、その夢を打ち砕いていくプロセスが綴られている。

 じつはぼくがこの記事を書こうと思ったのは、この『ダイヤモンドの功罪』を読んで、超絶的な実力を持ちながらそれをセーブせざるを得ない孤独な主人公の姿に上杉達也を思い出したからだ。

 そう、和也が亡くなるまで、作中であきらかに達也は本来の実力を抑えている。和也を抑圧しないように、和也からすべてを奪ってしまわないようにとかれは気を遣っているのである。

 達也は南と同じくはっきりと天才だ。マンガならではの誇張表現ではあるだろうが、和也が亡くなったあと、達也はこの天才的であるはずの弟が幼い頃から積み上げてきた実力と実績にわずか二年で追いつき、そして追い越してしまう。

 また、幼い頃から何をしても最初にできるようになるのは和也ではなく達也のほうだったという描写もある。達也が最初から本気を出して努力していたらおそらく和也は敵わないのだ。

 そして、そう、愛の問題がある。南は一貫して達也を愛している。かれがまったく能力を発揮できないように見える(もちろん、ほんとうは意図して抑えている)子供の頃から、達也しか見ていない。

 しょせん愛とはステータスだとかスペックだとかの問題ではないのだ。

 「一切の努力も才能も関係なく、愛されるものは愛され、愛されないものは愛されない」。これほどの理不尽がこの世にあるだろうか。

 しかし、それは現実にいくらでもありえることであり、「双子のテーマ」はこの「愛の問題系」を赤裸々に暴き立てる。

 つまり、和也がどんなにどんなにどんなに能力を積み上げても! 甲子園へ行ったとしても。おそらくプロ野球のスター選手になってすら。南が選ぶのは達也なのである。

 それがわかっているから和也は達也に劣等感を抱く。そして、また、自分は選ばれない、愛されない、「二番手」でしかない、そんな思いがどれほど和也を傷つけるか、南はもちろんわかっている。

 だからこそ、彼女はどうしても和也を拒絶することができない。自分のひとことが和也のギリギリのところでバランスが保たれた自我を崩壊させてしまう危険があるとわかっているからだ。

 第四巻には南と和也の印象的な会話がある。

「何年かまえ――」
「え?」
「あ、そうそう。小学校六年のときだ。アニキが海でおぼれたことがあったろ………」
「ええ。」
「そうだ。あのときだ。」
「なにが?」
「病院に運ばれたアニキを、二人して外でずっとまってたよね。 セミがやかましくてさ………」
「七月のおわりごろだったわ。」
「まってる間、ひともしゃべらなかったよ、南は…… 一生懸命アニキを心配していた…… 助かったとしってメチャクチャ泣きだすまで……… ひとこともしゃべらなかった……… あのとき…とてもアニキがうらやましく思えたのを覚えてるよ………」
「カッちゃんがそうなったって同じよ。」
「うん。たぶん…… そうなんだと思うけど……」
「あたりまえでしょ。」
「比べるようなことじゃないのはわかってるんだ……… でもね…… やっぱり……うらやましかった……」

 よりあいてをうらやんでいるのは達也ではなく和也のほうなのである。

 これはそれこそ『CIPHER』を読めばわかることだが、物語における双子とは単なる共通する遺伝子をもつあいてというだけに留まらず、むしろ「自分がそうであったかもしれないもうひとつの可能性」そのものである。

 つまり、和也は達也を見ることで「自分だって愛されたかもしれない」という可能性を知ることになる。しかし、現実に自分は達也ではなく、南に選ばれることはない。

 それがわかっているからこそ、かれはいっそう南に執着するのだ。「ぼくを選んで」、「ぼくを愛して」、「ぼくの才能でもなく成果でもなく、ぼく自身を見て」と。

 もちろん、かれは人間として浅倉南を好きだったに違いない。ただ、かれが南に向ける感情はそれだけではなく、このようなきわめて錯綜した内面的感情が絡んでいる。

 上記記事にも書かれている通り、和也はモテるが、それはただ幻想を見てちやほやされているだけのことである。愛されているわけではない。

 それがこの上なくはっきりとわかるのはたとえば第二巻のエピソードで、和也はたまたまデートすることになった女の子から「わあ、和也さんでも転んだりするんですね?」 と驚かれたりする。

 彼女が恋しているのは「完璧な少年」の虚像でしかなく、じっさいの和也ではまったくないということである。

 だからこそ、だれかに「ほんとうの自分」、「完璧ではないそのままの自分」を認めてほしい、そのままで愛してほしい、和也はそう願っていたのではないだろうか。

 そして、そのことを南ははっきりとわかっている。感じている。だから、かれに「甲子園つれてって」と望むのだ。わたしはあなたの努力を認めていますよ、その価値をわかっていますよ、というメッセージ。

 しかし、それでも、なお、彼女は和也が最も欲しているもの――無償にして無条件の愛、それだけはあたえてあげることができない。

 なぜならば。そう、彼女が愛しているのはあくまで和也ではなく達也だからである。

 この三角関係の描写の深さは、ほんとうにおそろしいものがある。南はどんなに和也に対し、「あなたには価値がある。あなたは素晴らしい。あなたは愛されるだけの意味をもつ存在だ」と伝えたかったことだろう。

 そのことを思うとぼくは涙が出そうになる。努力家の和也。傍から見て完璧に見える和也。そして内面のなかで、おそらくは悶え苦しんでいたであろう和也。

 その和也を救えるのは、唯一、双子の閉ざされた小宇宙に干渉できる南だけなのである。それなのに、南は恋愛的な意味で和也を愛することはできなかった。

 そんな南がどんなに和也のバリューを語ったところで、かれにとどかないのは当然ではないか。だからこそ、南は何もいうことができず、ただ沈黙するばかりなのだ。

 そして、また、達也も和也の苦悩を、その原因が自分にあることを感じていたことだろう。第四巻には兄弟のこのような会話がある。

「きめた? 野球部入部。今日、返事するんだろ? やりなよ。おれに気を遣うことないよ。」
「なんでおれがおまえに気をつかうんだよ。比較されてみじめになるのはおれのほうじゃねえか。」
「そういう意味じゃないんだけど………」
「んじゃどういう意味だい?」
「………」

 和也ははっきりと達也が自分に気を遣っていることをわかっているのだ。

 それぞれ天才的な才能をもつ三人が三人とも、あいてに気を遣って遠慮しあい、本心を隠したり、力を抑えたりしている。

 それでも、和也が生きていたらすべてが自然と解決に向かった可能性もあっただろう。しかし、和也は事故死し、達也も南もその死に捕らわれてしまう。

 通常、少年マンガは「より上へ」とか「より強く」といった「上昇」のモチベーションに貫かれている。めざすは全国制覇であったり、海賊王であったりするわけである。

 だが、『タッチ』という作品を印象的にしているのは「喪失」と「死への下降」の展開だ。達也も南も、いつもあかるく振る舞いながら、それでも和也の死から抜け出すことができない。

 和也が亡くなったことで、三角関係は解決するどころかいっそう強くからまってしまった。このタナトスの描写こそが、『タッチ』以降のあだち充作品を連綿と貫いていく「死のテーマ」そのものだ。

 素晴らしい。あまりにも素晴らしい。そして、なんという深い人間描写だろう。

 ここまで来ればあきらかなことに、浅倉南は「完璧なヒロイン」でも「兄弟のあいだで揺れ動く悪女」でもない。だれよりも救ってやりたい幼なじみの少年をどうしても救えない宿命を抱えたひとりの切ない女の子なのである。

 『CIPHER』の後半において、ヒロインのアニスはあまり存在を感じさせない(男性キャラクターのドラマが深くなるとヒロインの存在感が薄れるのは、『彼氏彼女の事情』などとも共通する少女マンガあるあるである)。

 それに対し、南は最後まで物語の中心人物でありつづける。だが、はたしてその内面が十分に理解されているといえるだろうか。

 そう――浅倉南をだれも知らない。

 ぼくはそう思うのである。

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